謹言
日本聖公会に謹言す
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誰も気づいていないこと
「穢れた行為をしたとされるその手で、神の名による祝福を受けてきたのです。」
この一節でどのような人物が「卒園生の母親」というHNであの書き込みをしたか、はっきりしてしまっている。「穢れた行為をしたとされるその手で」というのと、「穢れた行為をしたその手で」というのとではインパクトがまったく異なるだろう。「穢れた行為をしたその手で」と書くことが出来ない人物だ。高等裁判所の判決を無視したい人物であることは間違いないだろう。
そして、「神の名による祝福」という聞き慣れない用語を平然と使える人物だ。
「一人の人間の過ちによって、信頼していたものが崩れること。裏切られたという感情を抱くこと。そして、『信じていた自分』への嫌悪感さえ感じかねない事実」
そう言いながら、次のように続ける。
「それでも私は、ポストに一方的におかれるビラという手段の是非は問うていても、事実を隠蔽するべきだとも、寝た子を起こすなとも、一言も言ってはいません。」
と書かざるを得ない人物だ。
「卒園児の母です。」「私は偽ることなく、卒園児の母です。」と繰り返し自分が何者であるかを言わなければならない人物だ。それでいて、「被害を受けられた方の苦しみも、憎むべき者の罪の重さも、それを放置した者の責任も、そして私自身と子供たちも汚されてしまったような哀しみを、卒園生という「当事者」であるがゆえに、私は管理人さん以上に身近な痛みとして感じております。」と、まるで被害者とそのご家族を無視して、自分のことだけを語れる人物だ。
これを書いた人物は、そして、あのFH司祭問題を駁すというブログがどのようなブログであるか判っていない。言い換えれば、あのブログになど書き込む可能性などないと思っていた人物が、誰かの依頼によって、あのブログを読み、そして原稿を書いた。
あのブログに初めて書いたわりには、一行あけると読みやすいことを知っており、句読点のところで改行している。おそらく、我々のブログを毎日のように読んでいたのだろう。
そして、決定的なミスは次の表現に表れてしまった。
「『聖公会京都聖光幼稚園を守ろう!園児を守ろう!』という4月21日付けのブログの表題を変更した上で、『私の孫が聖光幼稚園に通っていたら、余生の楽しみである晩酌を止めてでも、孫を別の幼稚園に行かせるようにします。』『あなたのように、自分のお子さんだけのことを考えて、重大な犯罪を隠蔽し続け、税金から拠出されている退職金までH司祭に支払った、学校法人の理事会の責任を問わないようなことはしません』と語るあなたにとって、ビラの文中にある『1925年からのキリスト教の伝統ある幼稚園を守るために協力を!』という言葉はどんな意味を持つのでしょう?
この書き込みをした人物は、「キリスト教の伝統ある幼稚園を守るため」には、こうしたビラを撒かない方がいいと考えているということだ。言い換えれば、こんなビラを撒かれたら、来年の園児募集に障害になると考えているのだろう。彼らにとって、守るべきものは幼稚園そのものであって、そこに集ってくる子供達ではないと言うことが、ここに赤裸々に表れている。あの書き込みをした「卒園生の母」はこの時の書き込みを次の言葉で締めくくっている。
「聖光幼稚園のため、なんて書くのはやめましょう。」
だから、最初の書き込みの冒頭で「今回の地域へのビラ配布は、『聖公会京都聖光幼稚園を守ろう!園児を守ろう!』という表題とは矛盾した、配慮に欠けた行為であると思います。」という言葉も理解できるだろう。
また、もっと突っ込んで言わせてもらえば、「私が心を痛めるのは、卒園生である子供たちの心への影響です」といいながら、自分の子供があのビラを見てどのような反応を示したかを、彼女はまったく記していない。これでは、本当に卒園生の母親かどうかを疑われても仕方がないだろう。子供が学校から帰る前に気が付いて、ビラをどこかに隠したのであれば、当然そのことを書くはずだ。
そして「卒園生の母親」はこうも書いている。
「今回の事で、幼稚園や先生方、そして神様への信頼が失われ、そこで得た思い出やぬくもりを『全て』疑わずにはいられなくなり、子供にとって一つのふるさとであった場所から二度と安らぎを得られなくなることを、私は一番おそれ、そして哀しく思います。」
はっきり言わせてもらおう。学問はすべて疑うところから始まるのだ。子供の「なぜ?どうして?」は学問の出発点なのだ。彼女は子供からそれを奪い取ろうとしている。だから、文章中で、無前提に、自分の考え方が一番正しく、多くの人はそれを支持すると考えていることを表白している。
「ビラ配布という一方的な行為で、何の配慮もなく情報にふれる子供たちのこころの救済について、あなた方はどのように思っておられるのでしょうか?」とも書いているが、この表現には、この子どもの中に自分の子供が含まれているということは、その片鱗さえ見ることが出来ない。
「元園長の罪を糾弾する手段として、子供たちの心への影響を無視したビラを配りながら、『1925年からのキリスト教の伝統ある幼稚園を守るために協力を!』と語ることに私は大きな違和感を感じます。」
H司祭を擁護しようとすれば、確かに違和感を感じるだろう。
「あなた方が本当にめざすべきもの、正義はだれのためですか?幼いこころの平安も、そのなかで考慮されることではありませんか?」
この他人を見下したような言い方が随所に見受けられるが、もし彼女が説教する立場にあるのであれば、もう一度説教とは何かということを一から学び直して欲しい。礼拝における説教は、自分の考えを述べることではなく、神の言葉としての聖書を解き明かすものでなければならないし、説教者は高いところから会衆に語りかけるのではなく、会衆と同じ場所で語りかけなければならない。
「卒園生の母親」さんは、きっとこの拙文をお読みになっていらっしゃるだろうと思いますが、文章を書く時、説教原稿を書く時は、こうしたことに十分に注意していないと、説教が説教でなくなってしまう可能性があるように思えます。
『聖書学方法論』(日本キリスト教団出版局)は、説教者にとって座右の書でなければなりません。言葉の表面的なものだけを捉えずに、その言葉がどういう情況の中で書かれているかを、しっかりと読みとり、ご自分の恣意的な解釈ではなく、サイエンティフィカルな聖書釈義をして下さい。そうすれば、少なくとも、相手を貶めるような表現は出てこないはずです。
そして、前述の文献に関してですが、聖書学は既に教派を超えています。ローマ・カトリック教会の旧約学者の膨大な著書を訳されたのは、プロテスタントの教授でした。あの方は、確か日本聖公会の関係大学の教授をされていたと思います。
そして、ご自分のお子さん以上に、あの被害者の方を大切にしてあげて下さい。あなたのお子さんはPTSDに罹患されますか?一生涯、消えることのない心の傷を負わされましたか?H司祭による性的虐待は、そんな生やさしいものではありません。もしあなたがキリスト教の聖職者であるのだとしたら、是非、あの裁判記録を閲覧して下さい。3日もあれば、すべてを丹念に閲覧することが出来る量です。私は、鞍馬天狗氏の閲覧メモしか読んでいませんが、あなたは京都にお住まいのようですから、是非、奈良までお出かけいただきたいと思います。
これからも神様のご加護がございますように。
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