糾す会のメールと<祈りの有無>を読んだ


 同じようなことがあったんだな。実は拙者は「糾す会」の方にお会いしたことがない。今日、どこかですれ違っていたかもしれないが、残念なことをした。拙者が耳にしたのと同じことを「糾す会」の方々も耳にされたのだとしたら、あの界隈ではかなり有名な話かもしれない。

 拙者が会ったのは拙者と同じくらいの人だから、それほど以前のことではないだろうと思う。それと拙者が行った岩倉は東山の北側だから、糾す会が今日ビラを撒いたところは少し離れている。どちらにしろ、同じような話が伝わっていることに間違いはなさそうだ。

 あの話は本当なのか。明日、電話をして確かめてみることにする。近藤さんが言うように、あの女性が6人目の被害者であれば、日本聖公会京都教区はこの一件を知らないはずがない。それでいて、理事会はH司祭に退職金返還要求をしていないというのはどういうことか。

 それにしても、物騒な幼稚園だな。

久しぶりに修学院へ行ったが


 久しぶりに修学院へ行ったが、町並みがかなり新しくなっていて、昔の面影が残っていないところが多いように思えた。仕事のことで、ある人と会ったのだが、仕事の話が終わった後でS幼稚園の話をしてみた。すると、相手の口からとんでもないことが出てきた。勿論、その人が目撃した訳ではないから確実なことではないが、しかし、それが事実であるから、横にいた奥さんがその人の話を制したのだろう。

 確かに、法律に触れることではない。しかし、牧師がそれをしたら、即刻懲戒処分になってもおかしくないことだ。あそこまで噂が広まっているということは、かなりの人がそれを知っていることかもしれない。そのことを日本聖公会京都教区は知っていたのだろうか。それとも、知らなかったのか。6人目の被害者というのは、そのことだったのではないのか。打としたら、謝罪文を書く程度で済まされることではない。

 この拙文を、あのS幼稚園の近隣の方がお読みになったら、何のことかすぐに判るだろうと思う。日本聖公会京都教区は一体何を考えているのか。6人目の被害者がこの噂の人であったとしたら、即刻、懲戒処分をすべきことなのではないのか。それを隠し続けているとしたら、その理由は何なのか。常識的には隠し続けていいようなことではあるまい。勿論、あの退職金の支給など以ての外だ。日本聖公会京都教区は審判廷を開くしか道はあるまい。審判廷で過去の行状を洗い出し、それが事実であるかどうかを明確に判断し、H司祭を懲戒処分にするしかないだろう。教会とはまったく関係のない人々の間に、H司祭の行状が広がっている。

 これから、とりあえず「糾す会」にこの件をメールで知らせておくことにする。もしかしたらこの情報は既に「糾す会」も知っているかもしれない。この件については、しかし、黙っているべきことではなさそうだ。何しろ、教会とはまったく縁のない方々の間にも広まってしまっていることだ。少なくとも、京都市内の各教派の牧師達は知っているだろう。噂が沸騰する前に、日本聖公会京都教区はきちんとした対応をしておくべきだ。

何か奇妙だから


 何か奇妙だから、鞍馬天狗に電話して、「糾す会」に問い合わせてもらった。あのビラ配布を行った日に、「糾す会」の携帯に発信番号非通知の電話があったそうなのだが、それが間違いなくあのFH司祭問題を駁すへの投稿者だったのかどうかをなのだが、電話の主は明らかに自分が書き込んだと言ったそうだ。しかし、天狗からまた別の重要なことを聞いた。

 「あの卒園児の母親は、あのビラを読んでいない。」

 「ではどうしてビラのことを書き込めたのか。」

 「知り合いが連絡してきたと言っていたそうだ。」

 やはり近藤さんが<天誅>というブログで言っているように、誰かが「卒園児の母親」にファックスであのビラを送ったのだろうな。あの文字の大きさだと、小さい方はファックスでは文字がつぶれてしまうだろう。それでタイトルしか書かれていないことが理解できた。

 いま、「糾す会」の一斉メールが転送されてきたが、「糾す会」は今日もビラ配布をされたそうだが、こんな電話があったらしい。

 「迷惑防止条例で警察に訴えると興奮して電話をしてこられました。
 『こんな内容のビラを一軒一軒配布されたら幼稚園がつぶれていしまう!園児が集まらなくなる、入園児もほかに移ってしまう。配布をすぐ止めてください、止めてください!』と最後は懇願されました。」

 遂に本音が出てきたようだな。
 製品に不具合があることが判っているのに、その製品をリコールもせずに、テレビやインターネットでその製品のコマーシャルを続けているようなものだな。そして、インターネットなどでその不具合が暴露されて、慌てているのだろうが、だったらすぐに退職金返還要求をすればいいのだ。それでも、園児が減ることは仕方がないだろう。ある意味では当然の報いだ。あの最高裁への上告が却下され、高等裁判所の判決が確定したときがラストチャンスだったのだ。あの時点で、遡ってH司祭を懲戒免職にし、退職金の返還要求をしていればこんなことにはならなかったはずだ。そして、H司祭がいまだに「事実無根」を主張している残りの二人の被害者に対して、日本聖公会京都教区は誠実に謝罪し、そして被害者側の二つの要求を満たしておけばよかったのだ。

 それだけではない。日本聖公会京都教区の主教と常置委員会は、きちんと裁判記録を閲覧してきていればこうしたことにはならなかったのだ。主教や司祭の権威は、教会の内側でしか通用しない。最高裁判所の上告却下で高等裁判所の判決が確定したことの社会的意味をきちっと認識できていればよかったのだ。そして、それに相応しい対応をしていれば、こうした問題は起きていなかった。

 今度はどのジャーナリズムがこれを記事にするか。アエラの記事は、かなり多くの人々が読んでいる。そして、一番怖いのは、テレビのワイドショーだ。あそこで、ある食品が健康にいいというと、地方の町のスーパーでもそれが売り切れになるらしい。幼稚園に関心が一番あるのは子供がいる若い女性だろうが、その母親、つまり子供のお祖母ちゃんもかなり強い発言力がある。
 S幼稚園はもう手遅れかもしれない。H司祭のことに関して、極めて常識的な対応をしていればこうはならなかったはずだ。教会は治外法権ではない。宗教的な教理や宗教的行為に関しては国は、それが法律に違反していない限り、何も介入してこない。しかし、一旦法律に抵触したことがあれば、国や地方公共団体はそれなりの対処をしなければならなくなる。

 主教と常置委員会は責任を免れることが出来ないだろう。

誰も気づいていないこと


 「穢れた行為をしたとされるその手で、神の名による祝福を受けてきたのです。」

 この一節でどのような人物が「卒園生の母親」というHNであの書き込みをしたか、はっきりしてしまっている。「穢れた行為をしたとされるその手で」というのと、「穢れた行為をしたその手で」というのとではインパクトがまったく異なるだろう。「穢れた行為をしたその手で」と書くことが出来ない人物だ。高等裁判所の判決を無視したい人物であることは間違いないだろう。
 そして、「神の名による祝福」という聞き慣れない用語を平然と使える人物だ。

 「一人の人間の過ちによって、信頼していたものが崩れること。裏切られたという感情を抱くこと。そして、『信じていた自分』への嫌悪感さえ感じかねない事実」
 そう言いながら、次のように続ける。
 「それでも私は、ポストに一方的におかれるビラという手段の是非は問うていても、事実を隠蔽するべきだとも、寝た子を起こすなとも、一言も言ってはいません。」
 と書かざるを得ない人物だ。

 「卒園児の母です。」「私は偽ることなく、卒園児の母です。」と繰り返し自分が何者であるかを言わなければならない人物だ。それでいて、「被害を受けられた方の苦しみも、憎むべき者の罪の重さも、それを放置した者の責任も、そして私自身と子供たちも汚されてしまったような哀しみを、卒園生という「当事者」であるがゆえに、私は管理人さん以上に身近な痛みとして感じております。」と、まるで被害者とそのご家族を無視して、自分のことだけを語れる人物だ。

 これを書いた人物は、そして、あのFH司祭問題を駁すというブログがどのようなブログであるか判っていない。言い換えれば、あのブログになど書き込む可能性などないと思っていた人物が、誰かの依頼によって、あのブログを読み、そして原稿を書いた。
 あのブログに初めて書いたわりには、一行あけると読みやすいことを知っており、句読点のところで改行している。おそらく、我々のブログを毎日のように読んでいたのだろう。

 そして、決定的なミスは次の表現に表れてしまった。
 「『聖公会京都聖光幼稚園を守ろう!園児を守ろう!』という4月21日付けのブログの表題を変更した上で、『私の孫が聖光幼稚園に通っていたら、余生の楽しみである晩酌を止めてでも、孫を別の幼稚園に行かせるようにします。』『あなたのように、自分のお子さんだけのことを考えて、重大な犯罪を隠蔽し続け、税金から拠出されている退職金までH司祭に支払った、学校法人の理事会の責任を問わないようなことはしません』と語るあなたにとって、ビラの文中にある『1925年からのキリスト教の伝統ある幼稚園を守るために協力を!』という言葉はどんな意味を持つのでしょう?

 この書き込みをした人物は、「キリスト教の伝統ある幼稚園を守るため」には、こうしたビラを撒かない方がいいと考えているということだ。言い換えれば、こんなビラを撒かれたら、来年の園児募集に障害になると考えているのだろう。彼らにとって、守るべきものは幼稚園そのものであって、そこに集ってくる子供達ではないと言うことが、ここに赤裸々に表れている。あの書き込みをした「卒園生の母」はこの時の書き込みを次の言葉で締めくくっている。
 「聖光幼稚園のため、なんて書くのはやめましょう。」
 だから、最初の書き込みの冒頭で「今回の地域へのビラ配布は、『聖公会京都聖光幼稚園を守ろう!園児を守ろう!』という表題とは矛盾した、配慮に欠けた行為であると思います。」という言葉も理解できるだろう。

 また、もっと突っ込んで言わせてもらえば、「私が心を痛めるのは、卒園生である子供たちの心への影響です」といいながら、自分の子供があのビラを見てどのような反応を示したかを、彼女はまったく記していない。これでは、本当に卒園生の母親かどうかを疑われても仕方がないだろう。子供が学校から帰る前に気が付いて、ビラをどこかに隠したのであれば、当然そのことを書くはずだ。

 そして「卒園生の母親」はこうも書いている。
 「今回の事で、幼稚園や先生方、そして神様への信頼が失われ、そこで得た思い出やぬくもりを『全て』疑わずにはいられなくなり、子供にとって一つのふるさとであった場所から二度と安らぎを得られなくなることを、私は一番おそれ、そして哀しく思います。」
 はっきり言わせてもらおう。学問はすべて疑うところから始まるのだ。子供の「なぜ?どうして?」は学問の出発点なのだ。彼女は子供からそれを奪い取ろうとしている。だから、文章中で、無前提に、自分の考え方が一番正しく、多くの人はそれを支持すると考えていることを表白している。
 「ビラ配布という一方的な行為で、何の配慮もなく情報にふれる子供たちのこころの救済について、あなた方はどのように思っておられるのでしょうか?」とも書いているが、この表現には、この子どもの中に自分の子供が含まれているということは、その片鱗さえ見ることが出来ない。
 「元園長の罪を糾弾する手段として、子供たちの心への影響を無視したビラを配りながら、『1925年からのキリスト教の伝統ある幼稚園を守るために協力を!』と語ることに私は大きな違和感を感じます。」
 H司祭を擁護しようとすれば、確かに違和感を感じるだろう。
 「あなた方が本当にめざすべきもの、正義はだれのためですか?幼いこころの平安も、そのなかで考慮されることではありませんか?」
 この他人を見下したような言い方が随所に見受けられるが、もし彼女が説教する立場にあるのであれば、もう一度説教とは何かということを一から学び直して欲しい。礼拝における説教は、自分の考えを述べることではなく、神の言葉としての聖書を解き明かすものでなければならないし、説教者は高いところから会衆に語りかけるのではなく、会衆と同じ場所で語りかけなければならない。

 「卒園生の母親」さんは、きっとこの拙文をお読みになっていらっしゃるだろうと思いますが、文章を書く時、説教原稿を書く時は、こうしたことに十分に注意していないと、説教が説教でなくなってしまう可能性があるように思えます。
 『聖書学方法論』(日本キリスト教団出版局)は、説教者にとって座右の書でなければなりません。言葉の表面的なものだけを捉えずに、その言葉がどういう情況の中で書かれているかを、しっかりと読みとり、ご自分の恣意的な解釈ではなく、サイエンティフィカルな聖書釈義をして下さい。そうすれば、少なくとも、相手を貶めるような表現は出てこないはずです。
 そして、前述の文献に関してですが、聖書学は既に教派を超えています。ローマ・カトリック教会の旧約学者の膨大な著書を訳されたのは、プロテスタントの教授でした。あの方は、確か日本聖公会の関係大学の教授をされていたと思います。

 そして、ご自分のお子さん以上に、あの被害者の方を大切にしてあげて下さい。あなたのお子さんはPTSDに罹患されますか?一生涯、消えることのない心の傷を負わされましたか?H司祭による性的虐待は、そんな生やさしいものではありません。もしあなたがキリスト教の聖職者であるのだとしたら、是非、あの裁判記録を閲覧して下さい。3日もあれば、すべてを丹念に閲覧することが出来る量です。私は、鞍馬天狗氏の閲覧メモしか読んでいませんが、あなたは京都にお住まいのようですから、是非、奈良までお出かけいただきたいと思います。
 これからも神様のご加護がございますように。

京都教区の不思議 その2


 去年の11月23日に出された「常置委員会特別報告」で気になり続けてきたことがある。とりあえず、長文だがそれを引用しておくことにする。

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11月 2日(金)
 Bさん本人、付き添いの方、高地主教、柳原司祭、宮嶋司祭の5名で、原田元牧師宅を予告なく訪問。直接面談を行い、約3時間の話し合いが行われた。
 席上被害者のBさんは、被害にあった当時の様子、その時の気持ち、また、現在まで続く様々な精神的ストレスなど、Bさんの関係者の苦しみも含めて明らかにし、厳しく元牧師を追求した。
 はじめ、弁解や否認をする様子も見せたが、ついに、原田元牧師は、その被害者Bさんに対する性的加害の事実を認め、「申し訳ありませんでした」と口頭での謝罪を行った。そこで、確認のためその場で、被害者Bさんに対する加害の事実と、謝罪の意を表す文書を書くよう求めたところ、原田元牧師はそのようにし、署名捺印した。
 また、その後、さきに裁判に訴えた被害者Aさんの事案など、別件についても、性的加害の事実の問いただしたところ、その一部を認めたので、それらの事案についてもそれぞれの被害者に対する加害事実と被害者への謝罪文をその場で書くように求めたところ、原田元牧師はこれに応じて3通(合計4通)の事実確認と謝罪の文を書き、署名捺印した。
 今後、どのようにしていくかについては、本人も混乱していると述べたので、10日間ほど考える時間を与えるとし、散会した。

11月14日(水)
 原田元牧師の要請により懇談。(高地主教、三浦恒久司祭、井田泉司祭、宮嶋眞司祭出席)冒頭、原田氏より、彼の記憶している事件の経過を聞いたが、Aさんから告発された事実については否認を続けている。また、2001年当時の退職撤回時の経緯については、明確でない点も多く、今後も事実確認の積み重ねが必要であることを伝え、特に被害者の方々の尊厳の回復こそが最も大切なことだということを強調した。

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 去年の11月23日の時点では、被害者は6人ということになっている。その中で、最後に申し出たのがBさんなのだが、このBさんに関しては、主教や司祭たちがBさんと付き添いの方を同伴して、原田文雄司祭の所へ強引に押し掛けている。何故、このBさんに関しては京都教区はここまでしたのかが大きな疑問として残っている。そして「そこで、確認のためその場で、被害者Bさんに対する加害の事実と、謝罪の意を表す文書を書くよう求めたところ、原田元牧師はそのようにし、署名捺印した」とされているが、この文書は公開されているのだろうか。当然Bさんの氏名が記されているであろうから、京都教区はこれを公開していないが、しかし、京都教区は何故この加害行為の日時と場所を発表しなかったのか。

 その後、原田文雄司祭は他の5人のうち3人に対する加害行為を認め、「事実確認と謝罪の文を書き、署名捺印した」とされているが、その加害行為の日時も明らかにされていない。疑問はそれだけではない。この時に何故、京都教区はのこり2人に対する加害行為を認めさせ、謝罪文を書くことを強く迫らなかったのか。ここに最大の疑問がある。この2人のうちの1人は、原田文雄司祭による加害行為を高等裁判所が認め、その判決が確定している女性である。そして、京都教区はあの「謝罪」の記者会見で確定した高等裁判所の判決を認めているのである。それなのに、京都教区はこの2人の関しては説得を続けていない。原田文雄司祭のこの2人の女性に対する加害行為に関して京都教区は何故、原田文雄司祭に強く迫らなかったのか。その理由について京都教区は未だに沈黙し続けている。

 京都教区主教は前述の「常置委員会特別報告」に関して、同日「常置委員会特別報告を受けて」という文書を教区会で発表しているが、その最後にこう記している。
 「いずれにせよ、原田文雄元牧師が、真実に悔い改めて、被害者及び関係者に心からの謝罪をし、被害者及び関係者が癒されることができますように、今後も教区を上げて働きかけるつもりです。ご加祷、ご支援をよろしくお願いいたします。」
 しかし、この働きがその後どのように行われているかに関して、被害者側に報告があったということは、少なくとも被害者の正式な代理人のホームページには出ていない。「今後も教区を上げて働きかけるつもりです」と言っているのであれば、この半年の間になにもしていないということはないだろう。それとも、あれは「つもり」であって、「する」ということではないのだろうか。

京都府の不思議


 伝え聞くところによれば、京都府の学事文書課は、「糾す会」やS幼稚園の監事の進言にたいし、「禁固刑以上の刑罰を受けていなければ、事件を問題に出来ない」といっていたそうだが、もしこれが事実だとしたら、児童に対する性的虐待を社会がどう考えるかということに関する現在の議論をまったく無視しているとしか言いようがない。

 あの問題に関して、『正論』が取り上げ、『アエラ』がその問題性を詳しく指摘している。『アエラ』の記事には、誤解も偏見も捏造もない。相当に綿密な取材と調査を繰り返して書かれたのだろうと思う。それは、児童に対する性的虐待という犯罪が、どれほど重大なことであるかということを見抜いているからに他ならない。これは、思想性とはまったく関係がない。だから、立場のまったく異なる『正論』と『アエラ』に書かれてしまっている。あの日本聖公会京都教区の事件のことが載っている『アエラ』の中に、中国からの花見ツアーについて書かれているが、あの中に、『正論』とはまったく異なった考え方が、柔らかく書かれているのに気が付かれただろうか。

 日本聖公会京都教区は、ここまで騒がれても動じないのは、彼らの中に神学的営為が欠如しているからに他ならない。悪くいうと、彼らにとっての教会や幼稚園は、「飯の種」にすぎない。だからその関心は、常に金銭的な所にしか向いていないと、ある方がおっしゃっていた。こうした現実の中で起こっていた13歳以下の児童に対する性的虐待事件に関して、京都府学事文書課は「刑事裁判で禁固以上の刑に処せられていないから、問題はない」という見解をとるのだろう。彼らは、児童に対する性的虐待の意味をまったく知らないのだろう。しかし、ことは児童に関する事柄である。教育界の中で一番真剣にこの問題に関わらなければならないところである。

 官公庁には、「問題はない」ということにしておきたい人々が多い。何も起きなければ、仕事をしっかりしているということになるからに他ならないからなのだが、それ故に大きな間違いが起きることもある。病死だと断定して捜査を打ち切った事件が、実は殺人だったということもあった。自転車の夜間無灯火走行を取り締まらないのは、交通違反の件数が極端に増えるからだという説も耳にしたことがある。しかし、日本聖公会京都教区における性的虐待は、被害者が小学校4年生の時から始まっていたということの重大性を認識すべきだろう。京都府庁の学事文書課は、せめてあの裁判記録を閲覧しに行ってもいいのではないだろうか。これは単に宗教の内部で起こったことではない。加害者は学校法人の幼稚園の理事長兼園長だった。京都府学事文書課は、問題の重大性を、再確認する必要がある。

もう日本聖公会京都教区は崩壊しているかもしれない


 土方歳三氏が<世直し>というブログで、「一日も早く、あの被害者とそのご家 族の心が癒されるために、日本聖公会京都教区の聖職者達は、 心から懺悔し、悔い改めなければ、日本聖公会京都教区は教 会として崩壊してしまうだろう。」と書かれているが、日本聖公会京都教区は既に教会として崩壊しているかもしれない。理由ははっきりしている。少女が小学校4年の時から高校3年生まで性的虐待行為をし続けていたことがはっきりしているのに、その司祭に対して、幼稚園の園長としての退職金を支給している。しかも、確定した高等裁判所の判決が事実として認定した「被害手記」(地裁に出した訴状の一部)には、高校生の時にも、その司祭が居住していた幼稚園の隣にある牧師館でそれが行われていると記されている。

 現在のその幼稚園の理事長であり、その隣の教会の牧師であるM司祭は、その幼稚園に在職中の17年間には性的虐待は行われていないと発言していた。このM司祭は裁判記録を「読もうが読むまいが私の自由だ」と発言した司祭である。この司祭は京都教区の常置委員でもあるのだが、だとしたら日本聖公会京都教区は、被害者の立場に立つのではなく、加害牧師を擁護する立場を採っていることになる。この一点においても、キリスト教の司祭として認めることは出来ないのではないだろうか。信じられない暴挙である。おまけに、この教会の中にはいまだに、被害者の訴えは、妄想による虚言であり、H司祭の方が被害者だと信じている人々がいるという。

 天狗がさっき電話してきた。光電話を使っているから、自分が住んでいる市内にかけるのと同じ料金しか掛からないらしい。しかも、基本料は月々500円だと言っていた。それで、彼にいろいろ質問したのだが、性的虐待に対するこうした京都教区の対応の裏に、途轍もないことが隠れているかもしれないと話していた。これが事実であるかどうかは、近日中に明らかになると言っていた。そして、日本聖公会京都教区がそのことを知っていたら、日本聖公会京都教区はキリストの教会ではなくなっていると言わざるを得ないことだという。ただし、同志は今彼奴に電話してはならない。このところ、彼奴は2〜3時間ほどしかねていないそうだ。電話を切る時に「これから少し寝る」と強引に約束させた。おまけに、例の発作も起きているという。

 聖公会の司祭達は一日に何時間書斎にいられるか。言い換えれば、一日に何時間、書斎の椅子に座っていることが出来るか、ということだが、時間的余裕があるかないかではなく、書斎の椅子に座り続けて、一つのことに集中していられるかということだ。京都教区で起きた忌まわしい性的虐待事件意味を認識することが出来ないのは、神学的営為の欠如によるものだろう。日本聖公会京都教区は実に恐ろしい集団だ。ことに主教と聖職常置委員は最悪だとしか言いようがない。それだけではない。ここまで問題が明らかになっているのに、日本聖公会は何故動こうとしないのか。聖公会の礼拝堂にある十字架は、単なる飾りでしかないことがこれではっきりしたように思える。

犯罪は隠せない


 拙者がまだ学生だった頃だが、東京の府中にある東芝の工場から出てきた現金輸送車から、三億円という大金を強奪した事件があったのを覚えている。「強奪」と記すのは、あれが「強盗」になるかどうかで、友人たちとかなり議論したことがあるからだが、あの事件、刑事時効が過ぎ、民事時効が過ぎても犯人は名乗りでなかった。そもそも、所謂「お宮入り」する事件は多いのだが、その大半は小さな窃盗事件などだ。捜査員の人数などしれたものだし、目撃者も指紋も残っていないと、ほとんどがお宮入りになる。だから、統計上はお宮入りの数が増えているのだが、捜査員が多ければ多いほど、事件は簡単に片が付く。そうした意味では、あの三億円強奪事件は例外中の例外だった。

 M司祭は土方に見抜かれたようだな。
 「ちょっと待って!証拠がある」というのは、ある本のタイトルをパクったものだと思うが、それにしてもお粗末な話だ。そもそも裁判記録を閲覧しに行かないからこういうことになるのだ。しかし、もう一人のM司祭は最近になって閲覧してきているのではないのか?閲覧してきていれば、当然あの部分を読んでいるはずなのだが、もしかして、あの訴状の強烈さにショックを受けて、あそこまで読めなかったのだろうか。それだけ神経が繊細なら、何故はじめからこうしたことを企んだのだ。神経が繊細な人間ほど、隠し事は出来ないし、嘘を付くのが下手だ。

 H司祭は、S幼稚園に勤務している間の3年間にも、あの被害者に対して性的虐待行為をしていたことがこれではっきりしてしまった。「あの程度は問題にならない」とは絶対に言うなよ。あれを一般人がしたら、即刻、懲戒免職だ。と言っても、京都教区に裁判記録のメモがあるのかどうか。なければ「あの程度は」と言っても、何のことか判らないだろうな。裁判記録で大事なのは、訴状と確定した判決全体だ。ただ、この裁判の時は、加害者の反論も大事だ。なぜなら、加害者の反論を高等裁判所一つ一つ退けているから、加害者の反論の内容が判らなくては、判決の意味がよく判らなくなる。簡単に言えば、高等裁判所は加害者H司祭の反論を一つ一つ、判決の中ですべて退けているということなのだが。

 被害者の訴状と高等裁判所の判決を覆すだけの証拠を、M司祭が持っているとは思えない。まさか、「本人が事実無根だと言っている」とは言わないだろうが、もう一度申し上げておく。京都教区はあの謝罪の記者会見で、H司祭の加害行為を事実として認めているということをしっかりと認識していて頂きたい。これで、京都教区は事件を隠蔽できると思ったのだろうが、世の中それほど甘くはないし、女性に対する性的虐待を足掛け9年にわたって行っていたことは、極めて重大な犯罪であるということを忘れないで頂きたい。

「浮上する私立学校法改正」



 新撰組の土方さんから連絡があって、《祈りの有無》というブログに書かれていることを補強する文章を書くように依頼されました。拙者の節分でお役に立てるかどうか判りませんが、担当させられた書き込みの分に関して少し書かせていただきます。


 《祈りの有無》というブログに、「浮上する私立学校法改正」というタイトルの書き込みがあるが、日本聖公会京都教区のS教会と隣にある学校法人S幼稚園の会計が一体化していたそうだ。しかしこれは極めて重大な法律違反になる。京都府庁はこれを徹底的の調査すべきであろう。しかも、「監事は帳簿と領収書は一度も見ていないそうだ」と記されている。もしこれが事実であるとすれば、これも重大な瑕疵になる。彼らは今頃、会計帳簿を作成しているかもしれないが、何年にもわたる会計帳をを作るのは大変なことであるし、ここ5年間の領収書がきちんと整理されて保管されているかどうか。小生らのように、原稿料などで源泉徴収された税金が全額返ってくるような低所得者でも、5年以上にわたる領収書は保管している。まぁ、低収入低支出だから領収書の数はそれほど多くはないが、確定申告で税務署に必要経費として算出したものに関しては重要な証拠書類だから残している。

 日本聖公会京都教区の他の教会でも同じようなことをしているのだろうか。教会会計の管理を牧師がしているのだろうか。昨日も書いたが信じられないような話だ。そういえば、日本聖公会法憲法規には、各教会における教会委員会に関する規定はなかったように思えるがいかがであろうか。
 教会委員の選挙に始まり、教会委員会の決定と牧師の判断が異なった場合、どのように問題を処理するかということに関して明確な規定はなかったように思える。そもそも、主教制を日本聖公会はとっているので、最終的には主教が判断することなのであろうが、そうした細かい規定が法憲法規の中にあるかどうか。まさか「丼勘定」的なことはないと思うが、規定がないと予算決算を作成する時に、問題が起きないだろうか。あるいは無秩序にならないだろうか。そして、問題は教会員が知らないところで、教会の会計から支出されているということが起こり得ないだろうか。

 イギリスで出来た近代法治国家の制度を日本聖公会は受け継いでいると、日本聖公会法憲法規を自慢していた司祭がいたように記憶しているが、だとしたら、教会委員会のあり方などに関して、日本聖公会法憲法規は何故、規定していないのか。それとも、各教区にそうした規則があるのだろうか。しかし、小生の知り合いの聖公会の教会員はそうした規則を見たことがないと言っていた。もしかすると、規則はあっても、それを印刷して信徒全員には配っていないのかもしれない。だとしたら、教区という宗教法人の規則を当該宗教法人の関係者に周知していないことになる。これは、宗教法人法に抵触するおそれがある。
 それだけではない。「牧師館の火災保険料は幼稚園会計から支払われていたことを理事長自らが明らかにしたそうだ」と記されているが、宗教法人である教会の不動産に対して、何故学校法人である幼稚園が火災保険を掛けているのか。この保険の受取人は、一体誰になっているのか。保険料だけを学校法人である幼稚園が肩代わりしていたのだとすれば、これも明らかに法律の抵触する行為ではないのか。

 そして、日本聖公会京都教区のS教会の財政と学校法人S幼稚園の財政は一体化していると、宗教法人S教会の代表役員であり、学校法人S幼稚園の理事長でもある人物が行っていたと記されている。そして、S教会の牧師が財政面もS幼稚園と一体化させて、それを一手に行っていたということも、極めて異例のことであろうかと思われる。そもそも教会の牧師が教会会計を行うこと自体、他教派の教会では考えられないことである。
 かなり以前ではあるが、地元ではかなり有名な教会幼稚園があった。その幼稚園に関する会計は、教会総会で報告されるのだが、教諭に対する給与が、その労働時間・労働内容からすると極めて低いことが指摘されたが(牧師である園長の園長給はゼロ)、「子供達のために心血を注いで教育に当たっている幼稚園の先生方のために祈っていて下さい」という教会の会計担当者の説明で、総会はその場で祈り、この会計報告を承認した。あの幼稚園が今はどうなっているかはまったく判らないが、教会幼稚園のあるべき姿を考えさせられたことを記憶している。日本聖公会はもう一度、極めて具体的な問題から自らの神学を問い直した方がいい。どこかに記されていたが、高卒で3年間神学館で研修しただけで、神学が身に付くはずもない。寝ないでしても無理なことだ。ある教派の神学大学は、博士課程前期(修士課程)を修了することが原則になっているという。しかし、高卒で3年間神学館で研修しただけの司祭が、学校法人の理事長になっていたというが、本当だろうか。

独裁国家


 学校法人聖光学園聖光幼稚園の理事会の情報が入ってきた。大変なことがあった。学校法人には「寄付行為」という名の重要な規則の制定が定められているのだが、聖光幼稚園の「寄付行為」が平成18年に変更になっていた。インターネットで調べたら、この年に多くの法人でこの「寄付行為」が変更になっているから、おそらく行政からの指導があったものと思われる。しかし、この変更に関して、欠席していた監事に報告が為されていないようだ。幹事さんは自分の責任だとおっしゃっているそうだが、しかし、理事会の決定事項を欠席した監事に通知するのは当然のことなのであろうが、この通知が為されていないとはどういうことなのだろう。

 そもそも、実に不思議なことがあって、学校法人である聖光幼稚園の会計と、日本聖公会聖光教会の教会会計が一緒になっていたそうだ。そして、それをごく最近になって分離しているという。日本聖公会ではこうしたことを各教区の教会に対して指導してこなかったようだが、明らかな法令違反ではないのか。しかも、その幼稚園の会計と教会の会計を理事長であり、牧師である司祭が行っていたらしい。

 昨夜、天狗に電話が通じてしばらく話をしたが、日本聖公会の比較的小さな教会や伝道所では、教会の会計そのものを司祭や執事が行っているところがあるそうだ。そして、教会付属の幼稚園の場合などは、確実に園長である司祭がそれをしているケースもあるとのことだった。日本聖公会は教会組織というものをどれだけ学んでいるのだろうか。実に不思議なことだ。他教派では、伝道所には役員会がないので、母教会の役員会がその伝道所の会計を管理している。それと同じようなことが日本聖公会にもあるそうだが、しかし、聖光教会は決して小さな教会ではないだろうし、聖光幼稚園にしても小さな幼稚園ではない。にもかかわらず、理事長であり園長である司祭が会計をしているということは、一体何を意味しているのだろうか。

 ある教区では、学校法人の幼稚園の理事長である司祭が、何を考えたのか教諭全員を退職させてしまった事件があったという。解雇された教諭は裁判所に地位保全を申し立て、それが認められ、その司祭は主教から別の教区にある修道院での「静修」を命じられていたが、この4月から遠く離れた教区に移籍したそうだ。学校法人と宗教法人の区別が付いていないと同時に、その教会の牧師をしている司祭の立場について、かなりいい加減な実態が暴露されてしまっている。

 こうしてみると、日本聖公会では教区は主教を中心とした独裁連邦であり、教会は司祭を中心とした独裁国家であるように見える。それも、日本という国家の法律を無視してもいいと考えている独裁連邦であり、独裁国家であるということになる。主教が決定すれば、それが日本聖公会法憲法規に違反していようと、それが効力を発するというところである。それでいて彼らは、ローマ・カトリック教会の教皇無謬説を否定する。ローマ・カトリック教会から離脱した教会であるから無理もなかろうが、しかし、だからこそそこには大きな問題があるのだが、気がついていても彼らはそれを根本から改革しようとしていない。

 「キリスト教カルトを斬る」というブログがあるが、ほとんどが日本聖公会批判である。確かに、他のプロテスタント教会の中にも、そうした独裁的教会政治が行われているところがあるが、しかし、だからといって日本聖公会京都教区における現職司祭の女児に対する性的虐待を擁護できるわけではない。日本聖公会の司祭の中には、何か勘違いしているのがいて、日本聖公会だけを何故批判するのかといっているのがいると近藤さんが言っていた。

 そう言えば、「糾す会」のホームページの冒頭にアエラという雑誌のホームページへのリンクがあるそうだ。勿論アエラの許可を取っている。
 このブログのリンクにある「日本聖公会京都教区の事件」という所をクリックすると、「糾す会」のホームページを見ることが出来るので、是非、アエラのホームページまで行ってみて下さい。

日本聖公会性的虐待事件顛末記


 リンクにある「日本聖公会性的虐待事件顛末記 」を至急読んで下さい。

 こちらでも情報が入り次第、ここに一文を記します。

 ※この文は転写可です。
  それぞれのブロガーは是非連絡しあって宣伝して下さい。

背水の陣


 学校法人聖光幼稚園の評議員会と理事会が行われるそうだが、そこで何が審議されるのかに関しては、まったく情報が伝わってこない。ただ、この学校法人聖光幼稚園の関係団体である日本聖公会聖光教会の牧師が聖光幼稚園の理事長であり、日本聖公会京都教区主教が理事に加わっていることは誰しも否めない事実である。法的には別組織であるが、しかし理事の中には聖光教会の教会員もいる。元々、この聖光幼稚園も宗教法人立の幼稚園だったはずだ。設立したのは聖公会の宣教師だという。また、この幼稚園が認可されたのは昭和6年だと、幼稚園のホームページに出ている。

 そして興味深いことがある。日本聖公会聖光教会が出来たのは戦後の昭和23年、つまり、この幼稚園が聖光教会の設立母体であるということになるのだろう。ある聖光教会の信徒が「教会と幼稚園は関係がありません」という内容のことを話したというが、アメリカ人の夫人宣教した設立した幼児教育の場が幼稚園になり、そこに教会が建てられたのであるとすれば、関係がないどころか、この幼稚園が教会の母体であることは、幼稚園自身が自認しているところだ。こうした教会は、実は他にもある。中には、幼児教育の重要性と聖職への召命によって建てられた教会と幼稚園を知っている。これは日本聖公会の教会ではないが、設立者の息子さんは幼児教育を学ぶために東京大学教育学部で教育学を学び、それからその教派の神学校を出たあと、外国の神学大学でも神学を身につけられた方だった。この方は他の教授がサバティカルで不在の時は、ご自分の専門外の授業でも代講をしていらっしゃったほど優秀な方だった。

 そもそも幼児教育は教会の業だった。英語でも幼稚園のことを"kindergarten"と呼んでいるのは、それがドイツで始まったからに他ならない。フリードリッヒ・フレーベル(Friedrich Froebel)というドイツ人だ。日本聖公会の聖職には申し訳ないが、この人物はルター派のキリスト者だ。聖公会ではない。(日本聖公会の聖職には、何でもかんでも聖公会が一番だと思っている人がいる)。正に教会の「庭」で始められた「子供達の庭」が出発点だった。そしてそれが、ある意味では全世界に伝わった。6歳までの子供の社会化過程における教育の重要性は、タルコット・パーソンズ(Talcott Parsons)の社会理論の中でも論じられており、幼児教育に携わるための教育研修学校では、パーソンズの社会大系論の授業をしていたところがあったし、今でもしているかもしれない。

 こうした歴史の中で、アメリカ聖公会の婦人宣教師が建てた幼稚園の園長が、それがいつ行われたことであろうと、女児に対する性的虐待をし続けていた人物であっていいはずはない。まして、高等裁判所の判決が出ることを知っていながら、退職金の支給を決定し、しかもその額が請求されている慰謝料と裁判費用の合計金額に極めて近いということになれば、それは宣教師が建てた幼稚園として相応しいことでないことは誰が聞いても判ることだ。しかも、その後の理事長である現在の理事長は、あの性的虐待事件の慰謝料請求裁判の裁判記録を閲覧していない。高等裁判所がどのような判断をしたかということを、彼は読んでいない。明日開かれると聞いている学校法人聖光幼稚園の理事会で何が議論されるのか、日本聖公会や他のキリスト教会だけでなく、この問題に深く関心を持っているマスコミやジャーナリズムも目を凝らし、耳をそばだてているだろう。今の時代、児童に対する性的虐待という犯罪がいかに恐ろしいことであるかということを世界は気がついている。

監視かケアか


 今夜はやけに静かだが、祈りの有無というブログと沖田総司のブログを読んだ。GPSによる位置確認の是非に関することだが、基本的にGPSには限界がある。首都高の地下部分でカーナビが使えるだろうか。ビルの谷間や地下街でGPSが使えるだろうか。それだけではない。腕に付けられたGPSとのことだが、これを無効にする手段はいくらでもある。欧米のシステムはGPSと携帯電話のアンテナからの情報を連結させているのだろうと思うが、これでも位置を特定できなくすることは不可能なことではない。試しに、カーナビに付いているGPSアンテナに空き缶をかぶせてみるといい。これでカーナビが正常に動作するかどうか。

 欧米では常習性犯罪者の足首にこれを付けているらしいが、都会地だけでなく、農村部でもこれが機能するにはかなり通信網を整備しなければならないし、警察がしっかりとこれに対応できていなければならないだろう。沖田がいうように「少なくとも」6人の被害者がいる性的虐待を行った人物に対して、日本聖公会京都教区はあまりにも無知な対応をしていると言わざるを得ない。彼がどこに住んでいるのか、何をしているのかを知っているのは、日本聖公会京都教区でもごく一部だと言われているが、何故なのかがよく判らない。何も監視しろと言うのではない。そうではなく、再犯が起きないように、皆で祈り、声を掛けることをしなければならないのではないのか。あの司祭は、少なくとも4人に対する性的虐待行為を認め、それに対して謝罪文を書いたという。被害者は一人ではないし、京都教区内には今でも、「被害者」の妄想によるもので、その司祭こそが被害者だと考えている人々がいるという。しかし、あの昨年の教区会で配布された主教文書や常置委員会特別報告を読んでいないのだろうか。日本聖公会京都教区はこうしたことを何故信徒に説明しないのか。

 GPSを使った位置測定システムで監視することなど、パーフェクトなものでないどころか、抜け道はいくらでも考えられる。それよりも大事なのは、家族によるケア、あるいは周囲の仲間によるケアが、大事なようにも思える。そのためには、今どこで何をしているのかが多くの人々に知られていなければならない。ただし、ここにも問題がないわけではない。日本人は、異質な者を共同体から排除してきた歴史を持っているし、日本聖公会などはそれが顕著に現れている。ここ10年間の間に洗礼を受けていながら、音信不通の状態になっている信徒が何人いるだろうか。そして、そうなってしまった原因が分かっていながら、それを取り除いて関係を修復しようとする動きが少ないのは何故なのか。そして、加害司祭を未だに隠し続けている主教や常置委員がいる中で、このケアが可能であるとも思えない。そうした意味では、主教や常置委員をケアしながら、なおかつ加害司祭をケアしなければならないということになるが、信徒には重すぎる重荷かもしれない。

 最後に一つだけ苦言を呈したい。
 沖縄をはじめ日本本土にはかなり多くの米軍施設があり、それぞれに活動をしている。そうした米軍の駐留そのものに反対している聖公会の司祭で、自分の車や教会の車にカーナビを装備しているのはいないだろうな。インターネットで調べればすぐに判ることだが、カーナビはアメリカの軍事衛星を利用している。アメリカの軍事衛星がなければ、カーナビはまったく動作しない。そして、重大なことは、米軍だけではなく、様々な国の軍隊がこのGPSシステムを軍事に利用している。深夜に無灯火で戦車が砂漠を移動出来るのはこのシステムがあるからだ。トマホークという巡航ミサイルの命中精度が驚異的に高いのもこの軍事衛星のおかげだ。そして、民間の飛行機もこのシステムを利用して位置確認を行っている。自分のことには軍事衛星の恩恵を受けていながら、アメリカ軍の駐留には反対するという矛盾を、日本聖公会はどう考えているのか。「外国へ仕事で行かなければならないから、仕方なく飛行機に乗っている」という理由はおかしくないだろうか。

天誅を読んで


 近藤勇らしからぬ言葉遣いで書いてあるので何があったのかと思ったら、聖光幼稚園の理事会が開かれることが書いてありました。早速、近藤さんに電話したら、今日は信者さんの家庭を訪問する日で、少し遠くまで来るまで出掛けているそうで、詳しいことを聞きそびれていますが、気になるのでキーボードを叩き始めました。

 10年ほど前までは、大学でもかなり自由に教育が出来ていたそうですが、最近はかなり厳しくなり始めました。大学の教員資格の問題でもありますし、研究費の監査もかなり厳しいようです。私立の学校法人だけではなく、国公立の大学でもです。こうしたことは、国公立の学校だけでなく、私立の学校法人でも同じことです。国民の税金が私学助成金になっているのですから。
 ことに大学は大変です。一部には全国一律の大学卒業認定試験をした方がいいという意見があるようですが、卒業するのに必要な単位をきちんと取得しているかに関しては、文科省が調査しているようです。当然、学籍簿を見ていると思います。幼稚園に関しても当然のこととして指導が為されていると思います。

 こうした時代の流れの中で、日本聖公会京都教区の関係学校法人聖光学園聖光幼稚園も例外ではありません。学校法人の幼稚園では、宗教活動は法律でかなり制約されています。ですから、日本聖公会では、教会付属幼稚園が学校法人になろうとした時に、管区総会で大議論になったのです。私学助成金と引き換えに、教会が持っている信仰の継承ということを国に売ってもいいのか、と考えていた方もいらっしゃいました。しかし、結局は、私学助成金による経営の安定化のために、教会総会で学校法人かを議決し、幼稚園の部分の土地建物を学校法人に寄付してしまいました。
 その結果、私学助成金を受けられるようになったのですが、しかし、法的な制約も当然のこととして受けています。原田文雄司祭に対する退職金の支給の是非に関する問題はここに起因しています。勿論、教会付属の幼稚園でも同じように問題になると思うのですが、高等裁判所の判決が出る前に、退職金の支給を決定してしまっています。高等裁判所の判決が出たのは2005年3月30日ですが、退職金の支払いを決定した理事会は、同年2月27日に行われたそうです。高等裁判所の判決が突然行われることはあり得ないので、一般的な理解からすれば、2月27日には理事長である原田文雄司祭は、高等裁判所の判決が出る日時を知っていたのではないかと思われます。控訴審の被控訴人ですから、判決公判の期日に関する通知が高等裁判所から来ていたはずです。

 つまり、理事長でもある幼稚園長・原田文雄司祭は、性的虐待行為の加害者として慰謝料請求をされている控訴審の最中だった時に、理事会において退職金の支給が決定されていることになるわけです。そして、その後の原田文雄司祭の上告は最高裁で却下され、この高等裁判所の判決が確定しています。この却下が決定されたのは同年7月19日でした。この時に何故、学校法人聖光幼稚園の理事会は退職金の返還要求をしなかったのでしょうか。現在の理事長である宮嶋眞司祭は「法的には一切問題ないと解釈していますから、理事長としては動きません。返還の必要があるとは認めません。」「法的には問題なしで、17年間の在職に対するものです。」とおっしゃっているそうです。しかし、ここに大きな疑問があるのです。本当に法的に問題はないのでしょうか。問題の出発点は、12歳以下の児童に対する性的虐待行為です。それも、足掛け6年間にわたって行われていた性的虐待行為であり、それらの行為を高等裁判所は判決の中で、被告=加害者が行ったと認めています。当時の理事会の構成員全員はこうした裁判が行われていたことを知らされていたのでしょうか。

 もし知らされていなかったとすれば、明らかにそこでは隠蔽が行われていたと言わざるを得ません。しかも、退職金の支払いに関する重大な疑義になり得る事柄を隠蔽しています。学校法人聖光学園聖光幼稚園は、キリスト教教育を標榜する幼稚園です。教会が性的虐待行為を容認するということは、どの教派を問わず絶対にあり得ないことです。