裁判記録の閲覧


 「糾す会」が聖光教会の信徒の方々や聖光教会に縁のある方々、そして原田文雄司祭による性的虐待があった教会の教会委員の方々に文書を送付したそうですが、それに対する反響が聞こえてきています。大変なショックだろうと思います。そして、原田文雄司祭が長年にわたり性的虐待行為をし続けていた教会の方々も、大きなショックを受けているだろうとと思います。

 高等裁判所の判決が出る直前に、原田文雄司祭は金沢へ転任していますが、その時に学校法人聖光学園聖光幼稚園から、園長としての退職金700万円余りが支給されています。この金額は、裁判で請求されていた慰謝料と裁判費用の合計金額に近いものです。そして、原田文雄司祭は金沢に転任した後、高等裁判所の判決を不服として、最高裁判所に上告しました。民事裁判では、仮執行宣言が付いている判決は、余程のことがない限り上告しても無駄だと言われているのですが、それを無視して上告しています。

 そして、この段階でもまだ日本聖公会京都教区は加害者である原田文雄司祭の性的虐待行為に関して「冤罪だ」と言い続けていました。そして、原田文雄司祭に対して退職金の返還を要求しないどころか、原田文雄司祭が上告することを諦めることをさせませんでした。こうした事件では、裁判が長引けば長引くほど被害者やその家族が傷ついていくということを、高地主教をはじめ京都教区の常置委員達は何故考えなかったのでしょうか。彼らの中で裁判を傍聴しにいったのは、古賀司祭が一度だけだそうです。(最近になって三浦司祭が閲覧にいったそうですが、一日でずべてを読破できたとは思えません。

 心ある聖光教会の信徒の方々は、是非裁判記録を閲覧してきていただきたいのです。そして、訴状に記されている被害状況について、高等裁判所はどのように判断しているかということを認識していただきたいのです。高等裁判所は判決で、原田文雄司祭の反論をすべて退けているのですが、それをご自身の目で確かめてきていただきたいのです。そして、高地主教や宮嶋眞司祭から聞かされていたことと、現実とがどれだけ異なっているかということを、しっかりと認識してきていただきたいのです。また、あの原田文雄司祭が書いたという二通目の謝罪手紙も証拠として提出されていますが、あのような文書を現職の司祭が書いたこと自体、極めて遺憾なことであることは、誰もがお認めになることであろうかと思います。あの手紙を読んで、「冤罪」とか「事実無根」と言い続けていた高地主教や常置委員は、間違いなく被害者に対して二次的虐待を行っていたといえるのではないでしょうか。

 裁判記録の閲覧要領は、「糾す会」のホームページにあります。

 車で行くのは是非お止め下さい。鞍馬天狗はあれを読んだ後、東京まで車で帰ったそうですが、余程鈍感か、余程こうした事件の記録を読み慣れているかのどちらかだと思います。しかし、彼奴らしい行動ではありますが。
 また、お一人で行くのもお避けになった方がいいと思います。訴状や控訴理由書に書かれていることをお読みになったら、多くの方々は気分が悪くなると思います。仲のいいお友達とお二人で行くといいと思います。いま、鞍馬天狗に電話で確認したら、閲覧できる場所には椅子が三つしかないそうです。地方裁判所の事務室ですから、他の方もそこをお使いになります。そして、地方裁判所と高等裁判所の綴りは別ですが、それを解くことは許可されません。
 そして、鞍馬天狗から聞いたところでは、すべてを一日で閲覧することは不可能であろうとのことです。交代で閲覧しに行くのもいいかもしれません。そして、性的虐待行為と裁判の全容を知って下さい。そして、何故、この事件に対する京都教区の対応がおかしくなってしまったのかを考えて下さい。

倫理


 「倫理」を「ひとのみち」と説明する方がいらっしゃる。確かに倫理ということの一面を表している。しかし、「ひとのみち」と説明する時には、そこには大きな危険が待ち受けている。それは、個人の倫理は常に、社会の倫理と密接な関係があるということである。そして社会倫理は、個人倫理がそうであるように、永遠不変のものではない。人間という生物がこの地球上に出現して以来、人間社会は様々な変容を遂げてきた。ある学者はそれを進化(evolution) と呼んでいる。人間の長い歴史の中で倫理もまた進化し続けてきた。

 こうした倫理は、まだコトバが確認されていない動物の中にあっても、集団を形成している動物では社会倫理が存在していることは多くの人々に知られている。カラスの集団などは極めて秩序だった社会倫理を形成している。たとえば、都会的な町の中に集団で棲み着いているカラスの集団の場合、食料の調達だけでなく、その夜の「ねぐら」を探すことから、そこへ仲間の集団を誘導することまで、極めて秩序立てて行われている。午後早い時間帯になると、集団の中の一部が「ねぐら」の偵察に飛び回る。彼らはどうも鳴き声でコミュニケーションをとりながら、自分たちの集団の「ねぐら」を探し回っているようだ。そして、それが確定するといつの間にかその偵察隊は消えているが、夕方近くになると、その偵察隊に誘導されてその夜の「ねぐら」に移動するのだが、この「帰巣」過程をしばらくビルの高いところから見ていたことがある。

 カラスの集団がどこにいたのかは判らなかった。まず数羽のカラスが町の上を飛び始めた。そして、それから少しして、その数が10羽位になり、2羽ないし3羽の集団が点々と町の上空を特定の狭い範囲で旋回し始めた。すると大きな墓地がある方から大量のカラスが町を横切り、南の方へ飛び始めた。壮絶な眺めだった。彼らは一定の高さと広さの中で南に向かっていく。その大集団の群から抜け出すカラスは一羽もいない。それぞれが一定の速さと一定の方向を維持し続けて飛んでいる。そしてふと気が付くと、その飛行速度は、一羽でカラスが飛んでいる時よりも遅いように見える。

 不思議なのは、その集団が飛び去った後に、あの偵察隊と思われるカラスが2羽、まだ上空を旋回していることである。時々、大きな鳴き声を上げている。陽が傾きはじめて、空の色が濃くなり始めていたが、遠くで鳴き声がした。北の方だった。あのカラスの集団が飛来した北の方だった。見ると、カラスが二羽、低速で飛んでいる。それほど高いところではない。その二羽のうち一羽は飛ぶのがあまり上手ではなかった。体力的にも問題があるのかもしれない。上空を飛んでいた二羽の偵察隊は北の墓地の方から飛来した二羽を注視しながら、上空を旋回し続けている。そして、その旋回の中心あたりに来た時だった。飛ぶのが苦手なカラスに付いて来たカラスと、旋回していた二羽のうちの一羽が入れ替わったかのように見えた。瞬間のことだったので、はっきりとしたことは言えない。そして、その飛ぶのが苦手なカラスに付いて飛んでいるカラスは南に向かって跳び続けたのだが、それまで上空を旋回していた二羽のカラスのうちの一羽は南へは向かわなかった。

 すると、北のほうから二羽のカラスがまた飛んできた。彼らは飛ぶことに支障のないカラスだった。そして、この四羽が上空で合流すると、少し高度を下げた。そして、それぞれが大きな声で泣き始め、ゆっくりと南に向かい始めた。それは夕方になっても地上で好き勝手に餌を探しているカラスを探しているかのようにも見えた。そして、四羽のうちの三羽は南の方に向かって少し高度を下げたまま飛び去って行ったが、一羽だけは小生の上空でまた旋回し始めた。また陽が傾いて、空の色が変わっていた。

 それから数分後だった。どこからともなくカラスの鳴き声がした。そして、上空を旋回していたカラスがその鳴き声がした方に方向を変えた時、二羽のカラスが現れた。そして、上空を旋回していたカラスに向かって飛んで来始めると、その上空を旋回していたカラスは方向を南に向けた。そして、飛来した二羽のカラスと一緒に鳴き声を発しながら南の方へ飛び去った。
 残されたのは、ネオンサインが光り始めた町のいつもの風景だった。


 カラスは本当にコトバを持っていないのだろうかと思えるほどの集団移動だった。そして、遅れているカラスがいないかどうかを必死に探すカラスたちの行動は、我々人間以上に共同体意識が強く、それも弱いカラスをしっかりと守りながら生活していることを伺わせるものだ。

 今の日本聖公会にこうした意識は欠片もないだろう。主教や司祭が、性的虐待を受けた信徒を見捨てて、加害者である司祭を守り続けてきた。そして、被害者を守り、被害者の心を少しでも支えて上げたいと願った司祭を追い出した。偵察隊は、群を守るためではなく、集団のリーダーである自分たちを守るための偵察であり、諜報活動だった。だから、群の中から一羽、また一羽と群を離れていく。

 人権や平和、あるいは正義を口にしていた司祭達も、自らの立場を守るために、一切口を開かない。日本聖公会京都教区の首脳達はただひたすら自己保身に走り続けた。そして、実に愚かなことに、6人の被害者の中に大きな差を付けてしまったことを、何のためらいもなく教区会で報告した。誰も反対できないであろうし、誰も反対しないと確信していたのだろう。そしてもし、あの事件に対する教区の対応を批判するのがいたら、群から追い出せばいいと思っていたのかもしれない。事実、一人の司祭は追い出されている。

 一昨年の暮れ頃から始まったブログだけでなく、最近出来たブログも、多くの人々によって読まれている。そして、「糾す会」のホームページや被害者側代理人のホームページも読まれているだろうし、その中の文書は確実にダウンロードされているだろう。その中には、官公庁も含まれていることは、事件が事件だけに確実であろうと思われる。「信教の自由」というのは、教会は法律に違反してもいいということをまったく意味していない。そして、他教派の方々も丹念にあのホームページやブログを熱心に読んで下さっている。話をしていて、それに気が付いた。

 聞くところによると、ウイリアムス神学館にいる聖職候補生の中に、他のプロテスタント教会の牧師だった人がいるらしいな。自分たちの権威を正当化するために、聖職候補生からやり直させているのだろうが、だったら、毎月定期的に他教派の教会と合同礼拝をし、聖餐式をそれぞれの教会で行い、日本聖公会の信徒や司祭は「アーメン」と唱えて陪餐しているのはどういうことか。他教派の按手を日本聖公会は認めないのだったら、そこで行われている聖餐を二品を「アーメン」といって受けることは矛盾していることになるだろう。日本聖公会京都教区のホームページに「歴史的にも聖公会はローマ教会とプロテスタント諸教会との橋渡し(bridge church) の役目を担い。教会再一致を目指しています」と書かれているが、日本聖公会が言っている「教会再一致」は、みんながみんな日本聖公会の傘下に入れということらしい。
 ここまで全体主義的な教派が、少女に対する性的虐待行為をし続けていた司祭を処分出来ないでいるのも理解できる。心ある教区や教会は、日本聖公会を離脱して、「聖公会の信仰」というグループで、神学のある新しい日本聖公会を作った方がいい。彼らは決して右翼ではない。フェミニズムから出発している女性聖職按手に反対しているだけだ。「女性主教」や「女性司祭」を表すギリシア語もラテン語もない。これを否定するということは、キリスト教の大原則である正典としての聖書を否定することになるし、聖書を正典とした教会の伝統を否定することになる。しかし、この議論にも大きな問題が隠れている。女性司祭按手を容認した司祭の中には、「聖書のみ」ということを主張している人々がいる。この「聖書のみ」ということが言われる時、その背後に「教会の伝統(tradition)」 の否定があるのだが、聖書を正典としたカルタゴ会議は公会議ではない。日本聖公会がどの公会議までの決定を受け入れるのかに関して議論されたことがあるということを耳にしたことがない。その教派が何故"bridge church" になり得るのか。自分たちの権威だけを主張し、その権威は法律さえをも超えられると判断しているとしたら、日本聖公会は明らかにカルトであると言わざるを得ない。
 そして、司祭を守るためには教会法を主教は無視することが出来るらしい。「法権法規は最近整備されたもので、それ以外に聖公会は、昔から主教さまがこのような対応をしてきているのです」と宮嶋司祭は発言したそうだが、現在の日本聖公会の中で、こうしたことが容認されているのだろうか。

聖土曜日

聖土曜日

 悲しすぎるな。
 被害者女性は教会に来ていないそうだな。加害者の司祭には多額の退職金を支払ってまで擁護しているのに、被害者の女性を無視し続けている京都教区は、一体何を考えているのか。そもそも、学校法人の幼稚園の園長である司祭に、退職金が支払われたことでさえ異例のことではないのか。自分が知り得た限りでは、ここ数年の間に定年で京都教区の牧師を退職した司祭に、退職金が支払われているケースはないそうだ。不思議なことだが、それが聖公会の習慣だという。幼稚園からの退職金もない。特に学校法人になれない小さな幼稚園では、園長給さえ支払われていないところがある。

 原田に700万を超える退職金が、学校法人の幼稚園から支給されたらしいが、信じられないことだ。何故、原田にだけ多額の退職金が支払われたのか。そして、こうした問題に関して、京都教区の常置委員である宮嶋は「17年間の働きに対するものです」と発言しているという。恐ろしいくらいに非常識な発言だ。本当にこの17年間には何もなかったのか。自分の所には別の情報が流れてきている。

 原田が加害現場の教会を退いて、聖光教会の牧師、聖光幼稚園の理事長・園長に就任したのは1988年4月。裁判が起こされたのは2001年だったが、その裁判における訴状の中には、回数は多くはないが、聖光教会に移った後も性的虐待があったと記されているという。そして、確定した高等裁判所の判決の中では、控訴理由書に記されている内容を全面的に事実として認めている。つまり、聖光教会及び学校法人聖光幼稚園園長に在職中も性的虐待行為が行われていたことにならないか?法的にこの行為がどう考えられるべきかは判らないが、少なくとも被害者に対する性的虐待が行われていたことは事実であろう。

 京都教区の常置委員である宮嶋は裁判記録の閲覧に関して、「見るか見ないかは私の自由です」と言っていたそうだが、裁判記録を読むと都合の悪いことになるから、読みに行っていないのではないのか。被害者が中学を卒業し、高校に進学した後のことだ。この中学卒業と原田が聖光教会と聖光幼稚園に転任したのは同じ年の春だ。これ以降のことに関しても、被害者は控訴理由書に記しているそうだな。だとすれば、裁判記録を閲覧していれば「17年間の働きに対するものです」とは言えなくなる。だから「見るか見ないかは私の自由です」と言ったのだろう。明らかに事件を隠蔽している。それも、こうした事実が明るみに出たら退職金を支払えなくなるから、あえて裁判記録を閲覧に行っていないのだろう。「見るか見ないかは私の自由です」という言葉の裏には、それが隠れているように見える。原田は「17年間」何事も起こさずにいたわけではないことを高等裁判所は認めている。

 「糾す会」などから入ってくる情報では、聖光教会と聖光幼稚園での17年間には何事も起きていないということを宮嶋は強調しているようだが、裁判記録はそうは語っていない。隠蔽工作は無駄だ。「新撰組」の三人をはじめ、多くの眼がこの一連の京都教区の動きを注視しているのだ。
 「17年間」は何事もなかったことにして原田に退職金を支払うためには、裁判記録を閲覧しに行かない方がいいと判断していたのだろう。そして、あの分厚い裁判記録を閲覧して、こうしたことに気が付く奴はいないだろうと高を括っていたのではないのか。見くびるなよ、他教派の聖職者達を。「新撰組」の三人は、学生時代にあの学園紛争や安保闘争を経験してきた連中だ。皆それぞれに、専門分野での研究も続けている連中だ。中には博士号を持っているのもいる。そして大事なことは、「糾す会」の働きに関して、ローマ・カトリック教会も影で非常に深い関心を持っているそうだ。それだけではない。日本聖公会が社会問題に対して発信しているメッセージを読んでいる人々の中で、あの性的虐待に対する京都教区の対応に、極めて大きな懐疑心を持っている人々がいる。心ある聖公会の司祭達は最早沈黙し続けている時ではない。

 各教会や学校でインターネットにアクセスしているのであれば、それなりの意見をしっかりと書き込んだ方がいい。そして逃げるな。つまらない言い訳をするな。「いいたい放題」というブログのコメントに、実にくだらない「反論」を紹介しているのは、日本聖公会の信徒だろうと思うが、ああいう純粋で律儀な信徒の目を塞ぐな。あのブログの設置者は、天皇制批判までもが出てきている日本聖公会で、「海の主日」を守る意味とその起源を問うているのだろう。イギリスやスコットランドの海員伝道のことなど問題にしていない。日本聖公会の司祭達の中に、自分たちはどんなに素晴らしいことをしているかということを自慢げに話をするのがいるが、あれはみっともないから止めろ。6年以上にもわたる現職司祭の性的虐待事件に沈黙している司祭達に、世界の様々なところで起こっている問題を語る資格はない。「正義と平和」を論じ、オキナワを問題にするのであれば、日本聖公会の中にある闇を取り除いてからにしろ。でないと、真剣に世界と対峙し、日本の未来を考えている人々に対する冒涜にしかならない。そして、社会委員会が問題を考えていることによって、自分もそれに関与していると司祭は考えるな。自分が遣わされている町で何が起こっているのかを真剣に考えろ。口を閉ざすな。耳障りのいい話だけをするな。問題はいつも、社会の見えないところで起こっているのだ。

京都教区は迷惑

京都教区は迷惑

 こういう言い方は好きではないが、少なくとも京都教区は他教区にとって迷惑千万だ。この少子化の時代に、宗教法人立の幼稚園が生徒の激減で四苦八苦している時に、こともあろうに現職司祭の性的虐待事件を隠蔽しようとしているだけではなく、加害司祭を懲戒処分にしないどころではなく、多額の退職金を支払っているとはどういうことだ。これが新聞やテレビで報道されるようになったら、地方の教会幼稚園はその歴史を閉じなければならなくなる。京都教区は、少しは日本聖公会全体のことを考えて欲しい。

 送られてくる情報は、いかにも和解が進んでいたり、既に和解が成立しているかのような文書があるが、他から聞こえてくることは全く逆の情報だ。仕方がないので、裁判記録を閲覧した人を探して、裁判記録にあることを聞いた。そして性的虐待の内容たるや、信じられないくらい猥褻なことだということを知った。にもかかわらず宮嶋眞司祭は「そんなもの見るか見ないかは私の自由です」と発言したそうだが、無責任にも程がある。原田文雄司祭が転任した後、高等裁判所の判決が確定した時には既に、聖光幼稚園の理事長兼園長になっていたはずだ。それがどうして、「そんなもの見るか見ないかは私の自由です」と言えるのか。おまけに貴殿は京都教区の常置委員ではないのか。被害者は京都教区の信徒であろう。

 宮嶋氏:あれは実質的に終身ではなく5年で復帰可能な
     のです。だから高地主教は祈祷書によって倍餐停
     止にされたのです。法権法規は最近整備されたも
     ので、それ以外に聖公会は昔から主教さまがこの
     ような対応をしてきているのです。

 何故こうしたことが言えるのだ。管区総会で決議された法憲法規以外に日本聖公会に不文律があるという話は聞いたことがないぞ。過去の例はあっても、それが法的根拠を持つということは聞いたことがない。こうした発言をされると、他教区が困ると思わないのか。


 あの「一斉メール」に記されていること以外にも、様々なことは話し合われたのだろうな。その中で、とんでもない発言をしていないだろうな。

 そして、米軍基地の教会で聖餐式をしている教区があるらしいが、何を考えているのだ。オキナワの問題で苦労している司祭達を馬鹿にしていることになるように思えてきている。いつから日本聖公会はこんなに為体になってしまったのだ。それだけではない。オキナワや女性の人権で発信している司祭達は、何故京都教区に声を上げないのだ。

 監事 :宮嶋さん、法規の懲戒のトップに
    「審判廷にかけずに何人も懲罰されない」と書いて
    あるじゃないですか。

 と言われて宮嶋眞司祭は黙ってしまったそうだが、こんなことも知らなかったのか。あの法規の改訂の為に多くの労苦が為されていたのだ。それを一瞬にして灰にしてしまうような発言をするな。こうしたことも他教区には、途轍もなく迷惑なことなのだ。

彼らは何故加害者を擁護するのか


 聖光幼稚園の理事長の宮嶋は「裁判記録など読みに行く必要はない」と断言したそうだな。愚かな男よ。自分の教区で起こったことを、そして何よりも「謝罪の記者会見」でその裁判記録に記されている判決文を受容したにも拘わらず、裁判記録を読みに行かないということがどういう意味を持っているか、まったく判っていないのだろう。宮嶋にとっては、自分が理事長兼園長をしている聖光幼稚園の前任の理事長であり、前任の園長である原田文雄司祭が犯していた性的虐待行為の実態を知ろうとしていないのだが、外側から見ていると、一連の隠蔽工作の裏には何かがあるとしか思えん。

 もしかすると隠しておかなければならない、他にもっと大きな問題があるのかもしれない。それが明るみに出ると特定の司祭が困ることがあるのではないのか。一般社会では大きな問題にはならなくとも、日本聖公会と言う教会の司祭がそれをしで露見したら、必ず大きな問題になるようなことが。我々一般人にはそうとしか思えん。

 そして、加害者である原田文雄司祭はそれを知っていたとしたら、何が何でも原田を擁護するだろう。「謝罪の記者会見」を開いたのは形だけのことで、内実は原田の加害行為をどうしたら隠蔽できるかに奔走していたのではないのか。これまでの隠蔽目的の文書がそれをしめしておるし、何よりも原田文雄司祭を懲戒免職にし、退職金の返済を求めなければならんのに、学校法人聖光幼稚園の理事長である宮嶋は理事会記録を監事に閲覧させないという暴挙までしておる。

 日本聖公会は何をしておるのか。今までにもこうした理不尽なことをし続けてきたのか。ある教区では、若い聖職者がアルコール依存症に罹患してしまったそうだな。彼が何故そうなったのか、そしてその原因をその後解決したのか、我々一般人には何も聞こえてこない。ひた隠しに隠せば、いつか世間の人々の脳裏から消えるとでも思っているのか。性同一性障害だという司祭がいるそうだが、彼に関する専門医の診断書があるということを耳にしたことがない。あるのであれば、日本聖公会にはそれを公表する義務があるだろう。本人はすでに女性名を名乗り、女性的な衣服を着ているという。日本聖公会は一般人を無視しているのか、一般社会を敵に回そうとしているのか。性同一性障害の診断書がなければ、あの司祭は自称「性同一性障害」でしかなくなる。

日本聖公「正義と平和」委員会に謹んで申し上げる


 過般の諸ブログに書かれていることを読んだが、日本聖公会京都教区は一体何を考えておるのだ。日本聖公会京都教区を守ることなのか、それとも性的虐待行為の被害者を守ることなのか。その教会として一番大事なことを忘れているのではないのか。新撰組や鞍馬天狗、あるいは桂さんがいろいろなことを書いているが、妥当なことだ。原田は、地区の九条の会設立発起人に名を連ね、設立総会で挨拶している。にもかかわらず、自民党の国会議員候補者の選挙運動に自分が園長をしている幼稚園の職員を送り込んでいた。

 日本聖公会は正義と平和委員会がかなり積極的に沖縄問題に対して発言しているが、沖縄にある日本聖公会の教会は大きな声を上げているのだろうか。東京で、一握りの司祭が声を上げているだけではないのか。日本全国の教会で、真剣に沖縄の問題が学ばれ、沖縄の問題に発言してるのだろうか。少なくとも、日本聖公会の各教区のホームページにはそれらしい学習会が開かれているようなことは記されていない。

 大事なことは、日本聖公会として沖縄問題に発言することではなく、各地の教会でオキナワを考え、学び、祈ることだ。管区総会で決議したことを政府に送ったところで、それはサヨク思想で飯を食っている司祭には都合がいいかもしれないが、しかしオキナワで苦しんでいる人々の壮絶な苦悩が民衆に伝わり、民衆が判るはずもあるまい。それだけではない。調べられる範囲で調べたら、米軍基地内の教会で日本聖公会の司祭がミサをしているところは、複数あるようだな。これに関しては、オキナワで戦っている同志達に対する侮辱以外の何ものでもない。

 「正義と平和」で飯を食うな。自分の社会的地位を確保するな。司祭であろうが、主教であろうが、一般人には何の意味もないことだ。日本聖公会の司祭たちも、フェミニストの矛先を和らげるために「女性の人権」を口にしてきたのがいるだろう。それでいて、自分の立場を悪くするような場面が生起してきたら、口を閉ざしただろう。特に「正義と平和」委員会は、沖縄の女子中学生に対する性的虐待事件の原因を、アメリカ軍が沖縄に駐留していることだと断定しているだろう。なかなか鋭い読みをしているように見えるが、しかし京都教区における性的虐待事件には一切口を閉ざしているのは何故だ。沖縄の女性は中学生だったな。しかし、京都教区の性的虐待の被害者は、小学校4年生から中学3年生まで虐待され続けていたのだ。そして、中年になってもPTSDに苦しんでいる。日本聖公会の「正義と平和」委員会は何故沈黙しているのだ。何故、この問題に発言しないのか。

 貴殿らがしていることは、心底オキナワを考えているわけではなく、単にポーズでしかないだろう。先日もある日本聖公会の教会を訪れて見たが、沖縄の「お」の字も見あたらなかった。思想性のない、ご都合主義のサヨク思想の持ち主を「サヨク」と言っているが、日本聖公会はそれでもなく、正に「似非サヨク」でしかない。飯の種にもならなければ、そして発言することで自分の立場が脅かされそうになれば、日本聖公会「正義と平和」委員会は一切口を閉ざす。

 似非サヨク司祭たちよ、京都教区の出来事を真剣に見直せ。でなければ、キミらにはオキナワだけでなく、女性差別問題や狭山裁判を語る資格はない。社会問題に対する研究と行動を、飯の種にするな。そして、自分たちの中にある悪事を暴き出せ。社会に対する発言はそれからにしろ。それそれが、それぞれの場所で大きな痛みを背負って、苦しみを苦しみ抜いて、闘っているのだ。キミらのような似非サヨクは必要ない。