謹言
日本聖公会に謹言す
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半年の沈黙を破って
半年ほど沈黙していたが、刑事裁判の公判が行われ、その傍聴者からのメモが、ある人物から転送されて来たので、早速、目を通してみたのだが、実に奇妙な証言が行われているので驚愕し、また呆れてしまいました。そして、近藤勇氏のブログや「キリスト教カルトを斬る」というブログを読んで、私も気象庁のサイトを確認し、京都の近くに住んでいらっしゃる方に、あの教会の造りなどを電話でお尋ねしてしました。そして、外で陽が射している時に、南向きの窓の前に人に立ってもらい、その方に両手を上げ下ろししたり、片手を上げ下ろししてもらいいました。そして、10メートル近く離れたところでそれを見たのですが、眩しくて見えないということはありませんでした。
ベランダに出るための掃き出し窓ですから、上半分は普通のガラスです。下半分は、模様の入ったガラスです部屋の中の蛍光灯はすべて消してありましたが、直射日光が当たっている窓でも、眩しくてその方の動きが見えなくなるということはありませんでした。その窓と私が立っていた部屋の間には、窓がまったくない広い部屋があって、私が立っていた部屋には西向きに明かり取りの窓があるだけです。もう一度申し上げますが、その方が立っている背後の掃き出し窓は、ほぼ南向きの窓で、一昨日の昼頃のことでした。その方の動きは注視していなくとも、はっきり分かると思われるほどよく判りました。
11月16日の昼間の太陽高度と、ここ数日間の太陽高度はそれほど異なっていません。当時から、一ヶ月余りしか前後していません。それでいて、眩しくて見えなかったということもありませんでしたし、その方の前にある炬燵の上のものを注視していても、その方の動きははっきりと見えました。加害者が鞄をほぼ頭の所まで持ち上げて、それを「最敬礼」している被害者の上半身、もしくは後頭部に振り下ろしたとしても、それを確認することは出来なかったということが信じられないほどの実験結果でした。
あの「殴打」事件が起こったとされる場所とは状況が異なりますが、あの証言が私にはよく理解できません。私が実験したのは、背後に陽が当たっている窓の前でのことでした。お天気は快晴でした。そして、もう一つ不思議なのは、お二人の証人の証言内容がほぼ一致していることです。人間の目の性能はひとによって異なります。ある明るさを眩しいと感じる方もいれば、それほど眩しくないと感じる方もいらっしゃいます。ですから、見えやくいとか見えにくいということが微妙に異なっています。あのメモを読んだ限りでは、そうしたことを読みとることが出来ませんでした。
ベランダに出るための掃き出し窓ですから、上半分は普通のガラスです。下半分は、模様の入ったガラスです部屋の中の蛍光灯はすべて消してありましたが、直射日光が当たっている窓でも、眩しくてその方の動きが見えなくなるということはありませんでした。その窓と私が立っていた部屋の間には、窓がまったくない広い部屋があって、私が立っていた部屋には西向きに明かり取りの窓があるだけです。もう一度申し上げますが、その方が立っている背後の掃き出し窓は、ほぼ南向きの窓で、一昨日の昼頃のことでした。その方の動きは注視していなくとも、はっきり分かると思われるほどよく判りました。
11月16日の昼間の太陽高度と、ここ数日間の太陽高度はそれほど異なっていません。当時から、一ヶ月余りしか前後していません。それでいて、眩しくて見えなかったということもありませんでしたし、その方の前にある炬燵の上のものを注視していても、その方の動きははっきりと見えました。加害者が鞄をほぼ頭の所まで持ち上げて、それを「最敬礼」している被害者の上半身、もしくは後頭部に振り下ろしたとしても、それを確認することは出来なかったということが信じられないほどの実験結果でした。
あの「殴打」事件が起こったとされる場所とは状況が異なりますが、あの証言が私にはよく理解できません。私が実験したのは、背後に陽が当たっている窓の前でのことでした。お天気は快晴でした。そして、もう一つ不思議なのは、お二人の証人の証言内容がほぼ一致していることです。人間の目の性能はひとによって異なります。ある明るさを眩しいと感じる方もいれば、それほど眩しくないと感じる方もいらっしゃいます。ですから、見えやくいとか見えにくいということが微妙に異なっています。あのメモを読んだ限りでは、そうしたことを読みとることが出来ませんでした。
「人権」という言葉をご存じですか?
日本聖公会京都教区の聖職者の方々は、人権という言葉をご存じでしょうか。もしかするとご存じないのかもしれません。それは、どのような人にも同じだけの権利が与えられているということなのですが、それを言い換えれば、どのような人にも特別な権利は与えられていないということなのです。しかし、京都教区での女児に対する性的虐待事案が明るみに出て以来、次から次へと被害者の人権が無視されてきました。そして、裁判所で、被害者には虚言癖があると証言した司祭までいたのではないでしょうか。それも、専門の精神科医の診断書があるわけではなく、自らそう決めつけただけのことだったのではないでしょうか。
それだけではありません。あの性的虐待事案が明るみに出たときに、一旦は加害司祭の退職願を受理して退職させておきながら、翌日になって「事実無根」を加害司祭が主張し始めたら、加害司祭の主張だけを根拠に「退職撤回」を決めてしまいました。この時点で、日本聖公会京都教区は明らかに被害者の人権を無視しています。つまり、被害者の側の主張を聞いていながら、それをすべて無視したのです。近代市民社会にあっては赦されない暴挙でした。そして、その頃に被害者の側から要求されている、あの性的虐待事案に関するすべての常置委員会記録の公開は、いまだに行われていません。誰が何をどのように発言したのか、ということがまったく公にされていないのですが、結局はそれが加害司祭を擁護するということにしかなっていないことに、日本聖公会京都教区はお気付きになっていないようです。
それだけではありません。日本聖公会では女性司祭按手が議論されはじめた頃から、「女性の人権」という言葉を口にされてきた方々が大勢いらっしゃいました。沖縄での米兵による少女への暴行事件に関しては、かなり強烈な声明文を出していたのではないでしょうか。にもかかわらず、日本聖公会の現職(当時)の司祭が行った性的虐待事案に関しては、ただひたすら口を噤んでいらっしゃるのがどうしても解せません。「女性の人権」という言葉を口にしたことのある聖職の方々は大勢いらっしゃったはずなのですが、いまだに、誰も声を上げていません。聞くところによると、日本聖公会では、「聖職者は信徒よりも神に近い人」という誤解が蔓延しているようですが、こうした誤解が被害者の人権を無視し続けてきていることを可能にしているのだとしたら、日本聖公会の神学者達は何故、口を噤んでしまっているのでしょうか。
近いうちに管区の小審判廷が開かれるようですが、審判員の方々が、こうした視点をしっかりとお持ちになられないと、極めて反社会的な審判を下すことにしかならないことを認識しているかどうか、大いに疑問を抱かざるを得ません。まさか、問題をはぐらかしたり、日本聖公会の「法憲法規」に反して、加害司祭や日本聖公会京都教区の被申立人を擁護するために、「時効の完成」を言い出すことはないだろうと思いますが、それを心配している人々がいることも事実です。あるいは、管区の小審判廷は加害司祭の日本聖公会離脱をどのようにお考えになるのか。信徒が他郷派の教会に転会することも認めてこなかった日本聖公会の管区小審判廷は、あの離脱宣言を認めるのかどうか。被害者の人権を無視しするだけでなく、加害者に人権だけを認めるようなことをしなければいいがと、他教派の人間でありながらも、一市民として被害者のことを心から心配しています。
「女性の人権」とは何だったのでしょうか
かつて、「従軍慰安婦」の方々のために、積極的に発言されていた方が、日本聖公会にも大勢いらっしゃったのですが、皆さん、お体の具合でもお悪いのでしょうか。京都教区の女児に対する性的虐待に関して、何のご発言も為さらないのは、私には理解できませんので、そう思わざるを得ません。あの「従軍慰安婦」の問題に関しては、「女性の人権」という言葉が、かなり使われていたのではないでしょうか。それが、あの方々の口からは、あの京都教区での性的虐待に関しては何も聞こえてきません。本当に残念です。
確かに「従軍慰安婦」に関しては、まだまだ調査しなければならないことがたくさんあるようですが、少なくともあの方々はかなり以前から「従軍慰安婦」問題を積極的に口にしていらっしゃいました。そして同時に、「従軍慰安婦」だったという方々の証言以外の証拠をお示しにならないまま、「従軍慰安婦」問題も下火になり始めています。それだけではありません。戦後に日本と韓国の間で締結された日韓条約や日韓協約に関しては、ほとんど問題にされてこられませんでした。
しかし、そうした問題性を一旦横に置いておくとしても、あの方々は何故、京都教区の性的虐待に関しては沈黙されているのでしょうか。ご自分達の信仰の交わりの中にいる幼い姉妹が、長年にわたって現職の司祭(現在は終身停職中)から性的虐待を受け、それを他の現職の司祭が庇うために、捏造されたとしか考えられないことを口にされていたことに関して、被害者の女性の立場にどうしてお立ちになることが出来ないのでしょうか。それが不思議でならないのです。「従軍慰安婦」に関しては女性の人権を認めながら、なぜあの被害者の女性にそれと同じ女性の人権を主張なさらないのでしょうか。
このことをお伺いしたくて、ある方の電話番号をあるブログの管理人の方にお伺いして電話してみたのですが、体調を崩してお休みになっていらっしゃり、お話をお伺いすることが出来ませんでした。京都教区だけでなく、日本聖公会の中にも「従軍慰安婦」に関して積極的に発言されていた方々が日本聖公会にいらっしゃいましたが、そうした方々も何故あの問題になると沈黙し続けているのは何故なのでしょうか。かつてのあの発言は、単なるポーズでしかなかったのでしょうか。だとしたら、あの方々が口にされる「キリストの福音」は、私どもが信じているキリストの福音とはまったく異なったものであるとしか思えません。
魔物退治
何の進捗もないまま年が明けましたね。本当に悲しいことです。そして、日本聖公会京都教区は時が経てば経つほど、問題が風化していくとでも思っているのでしょうか。性的虐待をし続けていた現職の司祭を「終身停職」という職務執行停止処分にしたのですが、彼は既に日本聖公会を離脱しています。ということは、ある意味で他教派の司祭ということになるのですが、そのことを何らかの形で公にしたのでしょうか。あの処分は、日本聖公会内部の処分でしかなく、法的拘束力を持っていません。ただ単に、日本聖公会の内部でそれが行われたに過ぎません。
ですから、いまだに「事実無根」を貫いているあの加害司祭は、何ら悔悛もしていないわけで、女児に対する性的虐待をし続けたという、非常に大きな問題にかんして、日本聖公会京都教区はそのまま放置しているのではないでしょうか。児童に対する性的虐待ということの意味を、日本聖公会京都教区の責任者の方々はどれだけ認識されているのでしょうか。最近はまったく見ていませんが、「2ちゃんねる」というインターネット上の掲示板で、非常に無責任な発言をされている方々がいらっしゃいましたが、その中には、もしかしたら日本聖公会の聖職の方ではないかと思われるような書き込みをされている方もいらっしゃいました。
そして、お二人の方の審判に関しては、「時効」と判断されたのですが、私が知る範囲では、時効の起算日がいつであるのかということを細かく指定していらっしゃらなかったようなのですが、如何でしょうか。土方歳三というハンドルネームの方も書かれていらっしゃいましたが、あのお二人は謝罪していないのですから、時効は開始していないのではないでしょうか。日本聖公会京都教区は、そのことをどうお考えなのでしょう。日本聖公会法規第210条には「懲戒を求める申立は、第198条から第200条までに規定する行為または一定の行為をしないことが終わった時から3年を経過した後は、することができない。」と記されていますが、あのお二人の方が、裁判所に提訴した被害者の方に、正式に謝罪したということがあったのでしょうか。「一定の行為をしないことが終わった時」という規定の「一定の行為」を、何だとお考えなのでしょうか。
あと二ヶ月で、管区小審判廷の差し戻しが決定されてから1年が経ちます。この間にも、被害者とそのご家族は苦しみ続けていらっしゃるのではないでしょうか。そしてこの苦しみを助長させてきたのが、他でもない、この問題に対する日本聖公会京都教区の対応そのものだったのではないでしょうか。聞くところに寄れば、以前にも、日本聖公会京都教区の責任者は被害者のご家族を怒鳴りつけたそうですが、それだけでも懲戒に値することではないでしょうか。それとも日本聖公会では、信徒に対して、聖職者は何をどのように一手もか舞わないという不文律がおありになるのでしょうか。そしてそうした被害者のご家族を怒鳴りつけることが出来る権威を聖職者はお持ちだと考えていらっしゃるのでしょうか。これからの闘いは、ある意味では「魔物退治」であるのかもしれません。
いつになったら被害者を救済するのですか?
日本聖公会京都教区は、いつになったら被害者を救済するのでしょうか。「糾す会」などから送られてくるメールを読んでいると、日本聖公会京都教区は、ただただ時が過ぎるのを待っているだけのように見えます。そして、あの性的虐待事案だけでなく、様々な問題が表面化してきても、それに対する悔悛は一切行われていないのではないでしょうか。
学校法人の補助金を教会会計に流用しているようですが、呆れてものが言えないという状態です。ご自分達は、英国国教会の伝統の中にいる教会だから、何をしてもいいとお考えなのでしょうか。こうしたことは、日本聖公会京都教区だけでなく、日本聖公会の他の教区でも行われてきたことなのでしょうか。そして、何よりも、これまで様々な社会的問題、政治的問題に対して発言してきた聖職者達が、日本聖公会京都教区の性的虐待事案に関しては一切口を噤んでいらっしゃいますが、どういうことなのでしょうか。
日本聖公会には、もしかすると、主教よりも力をお持ちの方がいらっしゃって、その方の発言がこうした自体を引き起こしているのではとお考えの方々もいらっしゃるようです。本当なのでしょうか。聖公会という教会は、そうした絶大な権威を持った人物が教会の頂点に立つことを否定してきた教会ではないのでしょうか。しかし、英国国教会の頂点に女王陛下がいらっしゃるように、日本聖公会の頂点にも同じような権力をお持ちの方がいらっしゃるのでしょうか。
一昨日、遠くにいる、ある方に電話してみました。そして、日本聖公会のことを少しお伺いしてみたのですが、これまでにも様々な問題が起きていたようですね。聖職者の中にヒエラルヒーが残っていて、それがまるで日本の年功序列のようで、神学的議論はそのヒエラルヒーによっていとこ簡単に排除されてしまうようです。そして、相手の立場や、相手の身分を見て、平気で攻撃してくることもあるようです。日本聖公会は、こうした実状をこのまま継承していくのでしょうか。それが、アングリカニズムの継承ということなのでしょうか。






